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2008年04月01日

イピロスの名


この方の作品は本当にすばらしいものばかりです。
一度でいいから本物を見てみたいです。


イピロスの名は古来、本土・陸地を意味していたと考えられており、本来はコリンティアコス湾より南の沿岸一帯をさす言葉であった。紀元前にギリシャ人が入植し、アドリア海沿岸に住んでいたイリア人と接していた。

イピロスは紀元前6世紀からアキレウスの子ネオプトレモスの子孫を称するMolossian王朝により統治された。デルフィに次ぐ格式を有していたドドナの神殿・神託所によりギリシャ各地のポリスからも重要視されていた。イピロスの王アリュバースの姪オリンピュアスはマケドニア王フィリッポス2世と結婚し、アレクサンドロス大王を生んでいる。

アリュバースの死後、アレクサンドロス,アイアコスが王位を継いだ。紀元前295年に王になったピュロスはイタリア半島に侵攻し、南部イタリアおよびシチリアで共和政ローマと争った。

紀元前3世紀になるとイピロスの王朝はマケドニアへの干渉を始めたが、紀元前2世紀には共和政ローマの侵攻にあい、紀元前168年ローマにより占領された。146年にはローマ領マケドニアの一部となった。

その後400年イピロスはローマの支配下にあったが、395年のローマ帝国東西分割によってコンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国の統治下に入った。第4回十字軍によりコンスタンティノポリスが陥落すると、東ローマの皇族ミカエル・アンゲロスがアルタを首府とした亡命政権を樹立(イピロス専制侯国)し、小アジアのニカイア帝国と並ぶ東ローマ系勢力の拠点となった。その後ニカイア帝国が復興させた東ローマ帝国がイピロスを併合したが長続きせず、セルビア王国のウロシュ4世、ケファロニア島・ザキントス島の貴族カルロ1世トッコなどの支配を経て、1430年にはオスマン帝国の支配下に入った。

1443年オスマン帝国に臣従していたアルバニアの貴族スカンデルベクが反旗をひるがえし、イピロスも彼の支配下に入った。しかしスカンデルベクの死後1460年にオスマン帝国により併合された。ヴェネツィア領となった海岸沿いの一部の都市を除き、その後400年間はオスマン帝国による支配が続いた。

18世紀になるとオスマン帝国の力が陰り始め、イピロスはアルバニアの豪族出身のテペデレンリ・アリー・パシャに支配された。アリー・パシャはイスタンブルから地方総督として任命されてはいたが、実際にはイオアニナを中心としギリシャ西部とアルバニアにまたがる半独立国を築き上げた。ギリシャ独立戦争が開始されると、彼は独立を確保しようとしたが、バルカン半島におけるこれ以上の勢力の後退を嫌うトルコ政府により1822年殺害された。ギリシャが独立した後もイピロスはトルコ領にとどまった。

1878年のベルリン会議の後、1881年にイギリスの仲介によって南部イピロスの一部がギリシャ領となり、さらに20世紀前半のバルカン戦争によって南部イピロス全域がギリシャに割譲された。北イピロスはアルバニア領とされた。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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